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2005年09月21日
野球の原風景 -中内功氏の死に寄せて-
正確にいうならば、自分の生まれは同じ福岡でも福岡県北九州市の門司である。僅かに記憶の片隅に、家の窓から見える関門海峡と関門橋の光景がある。
だが、物心ついたときには福岡市に住んでいた。
野球との出会いは特に記憶にない。
親父がとにかく野球好きだったから、当たり前に生活の中に野球があった。
いつのまにかグローブとバットを買い与えて貰い、親父の休みの日にはキャッチボールをしていた。
親父も社会人になって間もない頃は野球をしていたらしい。後年、聞けば、投手か捕手、あるいは3塁手か1塁手をしていたという。
もっとも熊本出身の親父は、郷里の英雄、川上ファンでGiantsファンだったのだが。
そんな幼少期から過ごした福岡にはLionsというパ・リーグを代表するプロ野球チームがあった。
とはいえ、自分が野球に興味を持った頃には既に弱体化し、強者どもが夢の跡、抜け殻のような状態だった。直ぐに太平洋クラブLions、クラウンライターLionsへと変遷するような末期的な状態。
子供心にも、地元チームとはいえあの格好悪いショッキングピンクのユニフォームは情けなかった。
初めて平和台球場にいったのは、いくつの時か定かではないが、オープン戦。長嶋Giantsを迎えてのゲーム。そう、まだ王貞治が現役の時。迎えるLionsの監督は根本陸夫だった。
悲しいかな、ゲームの内容は良く覚えていないのだが、初めて見るプロ野球の球場に興奮したことだけは今でも忘れない。
それが自分のプロ野球の生での初体験だった。
自分が小学生の時、ライオンズ子供会に入っていれば7回以降はタダで平和台球場に入ることができた。平和台球場の低い外野スタンドの外にある木に登れば球場内を覗き見ることができる。タダで入れるその時間まで、その木に登って試合を観るのが福岡の小学生の愉しみだった。
思えば...その頃、Lionsにそんなに思い入れがあったかというとかなり怪しい。でも、プロ野球が身近にあったことだけは間違いなかった。
それに気づかされたのは、忘れもしない小学5年の晩秋。
Lionsが西武に買収され所沢に移転。
失って初めて気づく大切なもの。地元にプロ野球がある、その喜び。それを、福岡市民は忘れていた。
後悔しても始まらない。
多くの福岡市民は、悔いるかのようにLionsを応援した。
西武はその豊富な資金を背景にチーム強化に着手する。大胆な血の入れ替えを断行し、僅か3年で優勝できるチームに改造してみせた。
そして築いた黄金時代。
秋山、清原、デストラーデのクリーンアップに、工藤、渡辺久信といった若手投手陣を福岡時代からの生え抜き東尾が束ねる投手陣。パ・リーグ伝統の荒々しさとV9Giantsの細やかさを兼ね備えた、球史に残る魅力的なチーム作りに成功する。
だが、どんなに強くなり、それをどんなに応援しようと、しょせんは所沢のチーム。
いくら福岡で応援しても、その声は届かない。博多っ子に寂しさが拡がる。
いつしか市議会をも巻き込んで福岡市民の間に球団誘致運動が拡がった。
そんな博多っ子の寂しさと熱さに応えてくれたのが、流通革命の雄、中内功氏だった。
神戸に本拠を置くダイエーの創業者にして総帥。その彼が、1988年秋、南海Hawksを買収する。そして、神戸ではなく球団誘致を図っていた福岡を拠点にするという。
地元の反応は正直複雑だった。
地元の百貨店、スーパーや商店街はダイエーの福岡進出を警戒した。現に、既に数年前に地元スーパー、ユニードがダイエーに買収されていた。
そして野球ファンの反応も。
南海Hawksといえば、かつてパ・リーグでLionsを相手に優勝争いをしたライバル。
Lions以外のチームを応援するのか?!
地元の野球ファンの間でも意見は割れた。
同時期に阪急Bravesもオリックスに買収。かたや常にAクラス争い。一方のHawksはこの頃既に万年Bクラス。何故Hawksなんだ?!と言う声もあった。
だが、自分にとっては、胸をはって「オラが球団」と言えるチームが欲しかった。
だから迷いはなかった。
忘れもしない。
揃いの薄緑のブレザーに身を包んでチャーター機で福岡に降り立った彼らとその中心にいた中内氏の姿。
人は贅沢なものだ。
今ではすっかり常勝チームとしてのHawksに慣れっこになっているが...
あの頃はHawksが平和台にあることだけで嬉しかった。例え、どんなに弱くとも。地元に、オラが球団が存在する喜び。それは何者にも代えがたい喜びだった。
当時のHawksは、今の優勝を逃して悔しがるようなレベルには到底及ばない、それはそれは弱小チームを絵に描いたようなチームだった。でも嬉しかった。平和台に行けばプロ野球がある。
そして、またパ・リーグらしい面白いチームだった。
西武を相手に9回に8点差をひっくり返してみたり、岸川が1シーズンで3本もサヨナラ弾を打ってみたり。負けるときは本当に不甲斐なくあっさり負けるが、劇的な勝ち方にも事欠かないチームだった。
この頃の平和台のライトスタンド。
自分にとって第2の野球の原風景となった。
暫定的に平和台を本拠としたHawksだったが、中内氏は当時の豊富な資金力を背景に壮大なボールパーク構想を実現に移す。
日本初の開閉式ドームを中心にしたボールパーク。
そうして福岡ドームが完成したその年。中内オーナーは西武堤オーナーに掛け合い、西武野球の礎を築いた根本陸夫を監督に迎える。根本陸夫は開閉式の福岡ドームを観て「なんとバカげたものを作ったものだ」と呆れながら感嘆したという。
2年間の監督生活でチームを把握した根本は大胆なチーム改造に着手する。
FAでの石毛、工藤の獲得なんぞ序の口だ。
当時の投打の主力、村田投手、佐々木外野手を放出し、世紀のトレードで秋山外野手を獲得。負けることを何とも思わないチームに勝つ味を知る血を投入した。
そして、根本陸夫と中内功は球界の度肝を抜いた。
なんと!
あの世界の王貞治をHawks監督に迎えるという。
今考えても信じがたい話だ。
GiantsV9の中心選手にして世界のホームラン王、王貞治が、人気のないパ・リーグ、しかも地方都市福岡の万年Bクラスのチームの監督になるという。
それを決断させたのは、根本陸夫氏の球界全体を盛り上げようという熱意と、福岡の地に熱いプロ野球を根付かせんとする中内氏の情熱だった。
だが、ご存じのように福岡が王貞治を諸手を挙げて歓迎したかというと、そうではない。
就任後4年間は苦しみが続く。
ここでは詳述しないが、そんななか王貞治を守り続けたのも中内功。
そして、チームの春季キャンプに「同好会は終わった」との厳しい横断幕を掲げさせたのも中内功だ。
チームは1999年に初優勝。実に福岡に来てから10年。
それ以降のHawksの常勝軍団への道は皆さんご存じの通り。
間違いなく言えるのは...
中内功氏なくして、福岡の地に再びプロ野球の灯がともることはなかった。
福岡ドームを建設するなどというスケールの大きな球団経営もなかった。
そして、今にして思えば、常勝軍団を築いた王貞治、その人を福岡に迎え入れることも叶わなかっただろう。
今やHawksは、福岡の、九州の地に根ざした押しも押されぬ人気球団である。その人気は関西でのTigersに次ぐ12球団でも突出したものだ。地域密着での最大の成功例といっていい。
それがあったからこそ、Fightersの札幌移転や杜の都仙台での新球団誕生があった。
今の千葉県、千葉市が全面協力した千葉マリンスタジアムの盛り上がりのモデルを示したのも福岡だ。
その礎を築いたのは、間違いなく中内功氏、その人だ。
大きな変革を迫られる日本球界にあって、その成功モデルと今後向かうべき道標を示した、その功績は福岡やHawksだけにとどまらない。
自分が幼少の頃、親父に連れられて平和台にいった、その原風景を、幾世代にも渡り、子供達に見せてあげたい。心の底からそう思う。
それが、もし実現できたなら、それは少なからず中内氏による功績もあるに違いない。
中内さん、ありがとう。
博多っ子として、パ・リーグファンとして、そして野球ファンとして、あなたのことは決して忘れない。
ありがとう。
野球ファン、そして未来の野球ファンから感謝の念を捧げます。
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